怠惰
もう、年末になってしまったか。
単調で、色のない一年だった。
仕事もそこそこやってしまうだけであった。
情熱がなかった。
生活のスタイルを変えようと思ったが、外圧がなければ安きに流れてします。致し方のないことだ。緊張を長く持続することはできない。しかし気を抜くとズルズルと怠惰に流されてしまう。
そこを突破するものは何なのだろうか?
人間としての真面目さ、社会的な役割、先輩たちのアドバイスや名言、
さまざまな節目がひとつのきっかけになりうる。
年が改まるということは、ひとつの節目である。しかし、長年経験してきたが、この節目で人生が変わることはあまりないように思う。
しかしきっかけを掴まなければ、怠惰から抜け出せない。
しっかりと見つめることだろうか?
リフォーム打ち合わせ
12月1日にリフォームの打ち合わせ。
ここにくるまでずいぶん時間がかかった。
業者の仕事が大変なのか?
スムーズに進行しない。
まあ、打ち合わせの結果で何をやるか決めるつもり。
あまりケチりたくもないし、食い物にされるのも嫌だ。
妥当な値段ならば、そく実行になる。
人生の残り時間もあまりないかもしれない。
それならば、品質の良いものを望む。
率直に打ち合わせてみよう。
引っ越し
そろそろ首都圏に引っ越す時期が近付いてきた。
古い実家があるので、そこに移るつもり。
ただし、両親が亡くなって20年近くたっているので、整備しリフォームすることが必要だ。
年に2、3回泊まって、たまに庭木を切ったり草をむしったりしているが、設備はそのままだ。
水回りは、交換が必要。キッチン、風呂、トイレは取り換え。ちょっと打診してみると、前者の2件は、100万円程度必要とのこと。屋根も補修が必要だ。かなりの出費になるが、生活のためなら仕方があるまい。
むしろ問題は、妻との意見相違だ。これも何とか、マネージしてゆかねばなるまい。
新しい兆し
この8月の夏休みは、うつうつとしていた。
まず、暑さが半端でないので、外に出ることがない。
部屋では、本を読むか、テレビを見るか、パソコンでネット検索をするか。
せいぜい、日が暮れて日差しを避けて、散歩するくらいだ。
これでは精神的に参るので、昼の喫茶店に行ったり、夜の食事に行ったり。
しかし感染という言葉が気にかかるので、そそくさと引き上げる。
新しい生活スタイルなど作れそうもない。
しかし何もすることがないことに慣れてきた。日常の些細なことに意味を感じるようになってきた。
朝飯が終わって一段落して、コーヒー豆を挽いて、匂いを嗅ぎ、細い湯でコーヒーを入れる、この手順の中に芳醇な時間を感じるようになった。
ベランダに出て、メダカの水槽に餌を落とし込む。メダカが日ごとに大きくなってゆく。しかし、数が少しづつ減っているようだ。この風景にこころが和んでくる。
仕事を止めると、新しい生活の形が浮かんでくる。それをしっかりと捕まえることだ。
マンネリ化
コロナ一色の報道に、ずいぶんと心が落ち込んでいる。
しかし、こんな中でも生きてゆかねばならない。
生活感覚が止まってしまう、行動を止めてしまうと、奇妙な感覚に落ち込んで、さらに心が落ち込んでゆく。
重要なことは、日常生活を続けてゆくこと。自分が今まで生きてきた日常生活を、絶えることなく続けてゆくことが大切だ。まわりが緊張に包まれている空間では、目にする草花や、仰ぎ見る青空や木や森に、親しみを感じてその感覚を自分に納得させよう。
結局、人間はどのような環境にあっても生きてゆく能力は持っている。一片の詩や物語や、友達の優しい顔つきや人々が歩いて姿に、未来を感じることが、生きてゆくことにつながる。
生活の立て直し
まだまだ、コロナ関係のニュースは多い。
しかし、そろそろ一段落して、別のニュースに比重が移りそうだ。
コロナでリモートワークをせざるを得なくなってから、どうも
生活のスタイルが変わってしました。
時間管理、外出、買い物、散歩、読書、生活の多くの局面で、新しいイメージができそうで、できない。
メディアに引っ張られたニュース中心からの生活から、新しい生活へと立て直しをせざるを得ない。それは自然や、自分の日常感覚を中心にしたものになるに違いない。
ただ漫然と生きていては、スタイルの確立もむつかしい。